● 以下、自分用の覚書です。ネタばれ注意です! ●
● そして、長い ●
河合継之助は、越前長岡藩の家老である。
幕末の頃の歴史小説を読み、名前くらいは見知っていた気もするが、何をし、どのように生きたのかほぼ知らない人でした。
ところが、年末読んだ「武士の娘」という長岡藩の家老(板垣平助)の娘の描いた本にて、当時の長岡藩に興味を持ち、また、その時に、彼女の父親が、司馬遼太郎の「峠」に少しばかり出ているということを知ったので、あの時代を、司馬遼太郎がどう描くのか、興味を持ち、こちらの本を読むことにしました。
北越戦争と言うものを知らなかったので、知ることができてよかったこと。
「勝てば官軍」という言葉がある通り、今でこそ、「薩長」は明治維新の立役者という位置付けでありますが、存外そうでもなく、横暴であったこと。(大政奉還をした後も、「慶喜の首を見るまでは大事は成らず」と、戦いを挑んできた)など、あの時代の混乱を知ることができ、大変、勉強になりました。
さて、本主役の河合継之助の望むところは、
・官軍にもつかず、会津、桑名藩(佐幕派)にもつかず、この2派の調停役をしたかった。
・小さい藩が発言権を持つには、武力を蓄えることだと、金策に回り、武装兵備をさせること
でありました。後者の方は、それを実行に結びつけることができました。
ただ、継之助に関して言えば、死後、彼のことを同じ越後の者が悪くいい、墓石に鞭打ち、壊されたと言うことも知りました。
なぜなら、時流を読めば、素直に、官軍に従えるのが得策であると、河合継之助ほどの人物なら、わかっていたのに、藩よりも、武士の美意識、武士道みたいなものを優先させ、長岡藩を北越戦争に巻き込み、滅亡に追いやった人という評価もあるからです。
評価が二分される継之助。
「先見の明があり、実行力もある人物であると描かれながら、どうして、結果、こうなってしまったのだろう?」と、読者は思います。それについては、「もしかしたら、彼が陽明学の徒であらん、としたからではないか?」と、司馬遼太郎は書きます。
陽明学にあっては、事を成す時、それが成功するかしないかは、第一義ではない。結果がどうかという事はいとわない。この学問にとって、第一義というのは、その行為そのものが美しいかどうかだけであり、それだけを考えつめていくものである、らしい・・・
実際のところはわかりません。 なので、彼の評価が二分されるのだと思います。
ただ、武士たらんとした、その美意識をさすが、司馬遼太郎、見事に描いているのだなぁと思いました。
ちなみに、「武家の娘」の著者 鉞子さんの父親は、継之助とは逆のお立場でした。
ざっくりした感想しか書けませんが、いろんな立場の人の、視点を見る意味でとても役に立った。